この記事は、前回・前々回からの続きとなっております。
1つ目の記事
自分の母が毒親だと気づいた時、人生はその色を変えた。体験談ブログ
2つ目の記事
母が毒親とカウンセリングで認定され、アドバイスを実行した結果【体験談ブログ】
前回の最後の章では、わたしが徐々に母との距離をとったことにより、母の怒りの矛先がオットに向かっていった、というところまで書きました。
わたしは母と絶縁し7年が経ちます。
電話番号や住所も変えておらず、住んでいるところは車で30分ほどにあり、何もかもそのまま、一切の連絡を断っただけです。
7年の間1度も、メールも電話もしていません。
「絶縁」…と表現するには、少し特殊なケースかもしれません。
今回はそこに至った経緯を…ここからが修羅場になりますが…お話したいと思います。
毒親が起こした裁判沙汰
あまり詳しくは書けませんが、ざっくりこんなことがありました。
父は中小企業の経営者でした。
まだ元気だったころ、オットはわたしの父と母からの要望に応えて、跡を継ぐべく父の会社へ入社していました。
理由は、金銭的不満とオット憎さです。
自分の私利私欲のためだけにあらゆる手段(嘘を吹聴し周りを味方につけ、弁護士を立てるなど)を講じてオットを追い込みました。
しかも当時赤字だった会社を2年間で立て直していました。
しかし、一度はそれに賛同していた遺族である母が、突然ひっくり返ったことで会社に対する義理はなくなりました。
裁判をすればこちらの主張が通ることは解っていましたが、オットは家族の将来のために素早く会社を辞め、転職しました。
しかし事実を淡々と述べるだけで1つは(調停なので)こちらの主張どおり(法律通り)に和解。
裁判もこちらの事実通りの主張で全面勝訴となりました。
民事裁判で全面勝訴というのは珍しいそうです。
本当にも・の・す・ご・くざっくり書いていますが、このゴタゴタが片付くまで2〜3年かかりました。
母と徐々に距離をとることで一度回復していたわたしの体調は、またどん底になりました。
わたしがお伝えしたいのは裁判云々ではなく、この問題が起こってから片付くまでのわたしと母のことです。
ある日突然の裏切りだった
上記のゴタゴタが起こる前に話を戻します。
カウンセラーさんから受けたアドバイスを元に、徐々に距離を置いていたわたしですが、母と絶縁することなどは考えていませんでした。
母を心の底からは嫌いになれませんでした。
自分の罪悪感には抗えず、「母と仲がいい時期もあった」「母だって優しいときもあった」「わたしを憎いわけではない、話せば解ってくれるはず」という期待があり、今後は距離を保ちつつ、経済的にも母を支えていこう、とオットと話をしていました。
母が雇ったという弁護士の登場
ある日、弁護士を立ててきた母。オットを窮地に追い込む作戦が突然開始されました。
わたしは驚いてすぐに母に電話をしました。
1週間前に姉を交えて、子供を遊ばせてランチに行ったのに、そんな話は微塵も出ませんでした。
どういうことか解らないから、話し合いたいというわたしの申し出に母は「金が足りない」と言いました。
充分な生活費はあるはずで、貯金もだいぶあるはずで、家も車もローンは何一つないはずでした。
「お父さんがいたころの暮らしは落とせないからねぇ」というので、生活費を援助するというと「援助って言葉が嫌いなんだよ!!」とキレられました。
じゃあどうすれば?と訊くと最終的には「お姉ちゃんに言って」と言われました。
姉にも電話しましたが、同じでした。
話を聞きたいというと「よくわからないからさぁ〜、お母さんに言って」とかわされました。
また母に電話すると、「弁護士を通して」と言われました。
たらい回しは繰り返されました…姉からも「わたしが言いたいことは弁護士に伝えてある」と言われました。
わたしが親や姉と話すのには、弁護士を通せと言われたのです。
たらい回しの果てに理解した
ここまで来て、わたしはやっとこの事態を飲み込みました。
深い脱力感とともに、何か頭の中でずれていた部品がパチン!と合わさった音がしました。
ランチに行ったときの、母と姉の目配せ。オットの事を話すと、嫌な顔をして含み笑いをしていた。
ずっとそこにあった違和感。2人とも、わたしとあまり目を合わせなかった。
あれは、そういうことだったのか。
わたしを今までどおりランチに誘いながら、水面下ではこんな準備をしていたのだ。
…猛烈に吐き気をもよおしトイレに駆け込みました。
そして、
わたしだって普通に母や姉とランチに行きながら、実はカウンセリングに通っているという事実が笑えてきました。
母へ宛てた長い手紙
それなのにですよ。
今思えば愚かだったと思います。
わたしは、こんなことがあってもまだ母にコンタクトをとろうとしました。
母はわたしが距離をとったことをオットのせいだと思っていて、オットの悪口を周囲の全ての人間(親戚、社員、近所、友達、姉の一家)にそう吹聴しているから、誤解を解かねばと思いました。
親戚の叔母から、「お母さんにもっとお金をあげて。『わたしは娘と孫がいたら何も要らない』って言ってたわよ」とまで言われました。(えっと、その話自体すごい矛盾だと思いませんか)
わたしは、母が「何も言わずに距離をとった娘の行動に傷つき、やり場のない怒りをこんなふうに表しているのかもしれない」と激甘な考えで母に手紙を書きました。
”あまり会わなくなったことで、お母さんを苦しませていたらごめんなさい。お詫びします。
でも、私個人の精神的・身体的な理由でそうせざるを得ませんでした。
わたしは身体の具合が悪くなり、今カウンセリングを受けています。
オットに強要されたからではありません、オットは信頼に足る人物です。お母さんも知っているはずです…”
それはもう長い手紙でした。
これまでの経緯を決して母を責めないように書き、それでも話し合って分かりあいたいと書きました。
しかし、皆さんご推測の通りそれは無駄な徒労に終わりました。
母からは何の返事もなく、別件でしれっと電話してきたので、手紙は読んでくれたかと尋ねると、「あんたより私のほうが傷ついた!!自殺しようと思ったんだから!!」と怒鳴られ終わりました。
ああ、どこまでも、自分だけがかわいいのか…。
周りの人に「子供と孫がいれば私は命もいらないのに!!」とさめざめ泣いてみせることが出来る母の言い分がこれでした。
そうでした。「自殺」というワードは母の切り札でした。
「お母さんはいつもミカコの味方だからね」「最後に頼れるのは親兄弟だけなんだよ」と綺麗事を並べ立てるくせに、自分の気分次第で平気で娘の手を振り払うことの出来る人間だったのです。
わたしが母を本当に諦めた瞬間
それは、親戚の伯母(さっき登場したのとは別の人)が、わたしの状態を知って電話をかけてきてくれた時のことでした。
(実はいろいろな経緯があって、その方はわたしが母へ宛てた手紙を読んで心配してくれたのです)
「ミカコちゃん、大丈夫?小さい子二人もいて育児も大変でしょう。ちゃんと食べて寝てるの?無理したらだめよ?」
優しくそう言われました。はい、はい、とうなずいて聞いていました。
他愛もない会話でしたが、その電話が切れたあと、わたしは受話器を持ったままわんわん泣いてしまいました。
伯母の言葉は、わたしが母から受取りたかった言葉でした。
これが普通の「お母さん」なのだと思いました。
わたしはその歳になっていてさえ、母からの愛を、ほんの少しでも、気遣いであれ優しさであれ、感じたくて仕方がなかったのです。
ああ、わたしはあの手紙を読んだ母から、こんな言葉をもらうことを期待していたのかと。
そしてやっと、やっと諦めがつきました。
いくらわたしの母へそれを求めても無理だということを。
カウンセラーさんの言った「母には共感能力が欠如している」という言葉、あれはまぎれもなく真実でした。
わたしを産まなかったことにする宣言
裁判が始まる少し前、オットが絶対いない平日の昼間を狙い、わたしの家の玄関先に、何の前触れもなく突然母と姉が現れました。
少しも笑うことなく、無表情で。
事前に考えてきたらしいすぐばれる嘘を並べて、契約書だか誓約書だかを取り出し、これに印鑑を捺せと言ってきました。
当然「それはできません」と答えると母はものすごい形相で「なんで?!」と凄みました。
わたしの3歳の娘が泣き出しました。
それを無視して、さらに母は怒鳴り散らしました。
わたしがその場でオットに電話をかけると、わたしの携帯をひったくり母がオットを相手に何か怒鳴りました。
子供の泣き声をバックにそれを聞かされたオットが「すぐ帰ります、自分が話を聞くので待ってて下さい」と鋼のような声で言い返しているのがはっきりと聞こえました。
普段温厚なオットが、明らかに腹を立てているのがわかりました。
わたしはきつい耳鳴りがしはじめて、立っているのもやっとの状態でした。
オットがここに来ると聞いた母が少し焦ったように「刃傷沙汰になったら困るから帰るわ!」と持ってきた紙をしまいだしました。
(誰が刃物を持ち出すの?あなた以外に…)と考えたわたしに
「もうあんたのことは、産まなかったと思うことにする!!」と宣言し帰りました。
それきりです。
わたしからは一切の連絡を経ち、母側からも来ることはなくなりました。
あとは、弁護士を通して淡々と事が進み、決着がつき、7年の歳月が流れました。
毒親から解放されて7年後
わたしの体調は完全に回復し、扁桃摘出手術をしたことでさらに丈夫になり、何にでも挑戦してみたくなるほど、世界はわたしにとって「生きやすい場所」になりました。
接客業の仕事も面白かったけれど…この歳になって、幼い頃なりたかった「小説家」という夢を思い出し、まずはブログを書き始めました。
(やってみたら全く別物でしたがこれはこれですごく楽しい)
小さい頃のわたしは自分に自信が持てず、わたしなんてどうせだめだ、どうせ無理だと決めつけていました。
それをすべてを母のせいにするつもりはありません。
きっとわたしは「育てにくい子」だったのかもしれません。
母とは親子でも、相性が悪かったのかもしれません。
母も苦労していたのかもしれません…。
でも、今小学生になった自分の子どもに対して、髪の毛を鷲掴みにしてバスタブに沈める、などということはどんなことがあろうと絶対にできません。
重いランドセルをしょった下校時に、高熱を出してフラフラで、30分歩いて母の顔を見た途端ほっとして泣き出した子どもに、人前で「そんなんでいちいち泣くな、たいしたことない!」と怒鳴りつけることも出来ません。
「出来ない」ということにとても安堵します。
わたしはあの人とは全く違うのだ、ということに。
まとめ
その後、母からのコンタクトは
数カ月後、何度か親戚の叔母を通して「家にある(わたしの)本を自分(母)がいないときにでも取りに来たらいい」などと伝えられましたが、すべて無視しました。
以前は「お母さんにお金をあげて」と言っていた叔母も、わたしが一切折れるつもりがないことを知ってからはわたしの味方になってくれて、わたしに母と連絡をとれなどと強要することはありません。
産まなかったことにする、と言ったからには徹底して守ってもらおうと思います。
毒親と離れるための最短コースと、まわり道
大人になってから毒親の起こしたトラブルで人生をかき回され、結果として絶縁したわたしのケースは珍しいかもしれません。
でも離れたら、心も身体も本っ当に楽になりました。
毒親がどういうものか、機能不全家族がどういうものか、本をたくさん読んだので自分の子育てを時々客観的に見ることもできます。(そりゃ物凄く悩んだりもしますけれど)
母に対して、何度も「理解してくれるかもしれない」「わかりあえるかもしれない」と期待しては裏切られました。
だから、カウンセラーさんの言った『毒親を変える事はできないから、物理的に離れなさい』というアドバイスは真理だったと今ではわかります。
カウンセラーさんが示された道が本当は最短コースだったのです。
でもわたしには、何度も期待しては裏切られ絶望した「まわり道」は、「母」という人を諦めるための必要なステップだったのだとも思えます。
それに、距離を自分から取り始めた最初はさんざん「罪悪感」に悩まされましたが、まわり道をしたことで「こうするより仕方がなかったのだ」と納得することできました。
親と絶縁するという罪悪感よりも大事なもの
そして、わたしは母と離れる罪悪感よりも大事なものを選びました。
それは自分の人生と、オットと子供です。
あのまま母に振り回されていたら、身体が持たなかった。
自分の時間を生きることもできず、子供に笑顔を向けることもできなかったかもしれません。
ですから、反省することはあっても、後悔はしません。
最後に
経緯を全て話してしまいました。
詳しく書きすぎた気もしますので、もしかしたらそのうちこの記事は消すかもしれません。
悩んでいる方の力になれたら、と書き始めた話ですが、とても個人的な記事になってしまいました。
当時の日記や手帳を見ながら書きましたので、つい昨日のことのように読めるかもしれませんが、全て今のわたしからは「切り離された過去」であり、毎日の生活ではもう忘れ去っていたことです。
今はごく普通の、穏やかな、楽しい毎日を送っています。
子育ての悩みはつきないのですが…それはまた別の話です。
※毒親と絶縁する一般的な方法はよく調べていましたので、また記事にするかもしれません。
追記:記事にしました!徹底的に調べ直しました。
親と絶縁する具体的な方法!これを読めば実践できる、徹底マニュアル
登場する母が全てうちの母のような本
オットがくれた本
子育ての参考にしている本
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