先日、こんなツイートをしたところ、大変な反響がありました。
理解されないかもしれないけど、私が子供を可愛がれば可愛がるほど、小さい頃の私が「いいな…」って、羨ましそうに見ていることがある。
だから今日も可愛がる。
小さい私の視線に気づくと、胸がギュッとなるけれど。
だから今日も可愛がる。
私の子は幸せになるように。こんな思いをさせないように。— ミカコ🐰リライトが止まらない (@mikakolife) 2018年11月29日
今までわたしの見たことがない数字がでました。
このツイートを読んで、わかる!!と言って頂けるリプが大変多かったです。
本当の意味で理解してくださった方は、わたしが毒親育ちであるという意味を汲んでくれたと思います。
そうです。
わたしの場合、母が毒でした。(毒、という言い方は良くないですが便宜上、使います)
母とは絶縁して7年経っています。
毒親にも色々います。
今回はわたしの母親がどんな人間だったのかをお話します。
今のわたしは幸せですので、それは覚えておいてください。
どんな毒親か?本当は毒親を種類分けなんてできない
よく、毒親をタイプ別にしているサイトなどを見ますが、わたしの母は示されていたタイプ全てに当てはまりました。
過干渉、過保護、支配、暴力、ネグレクト、精神虐待、全てありました。
気分によって、また子供(わたし)の年代によって変わったりしました。
多分あの人は、小さな赤ちゃんや幼児である「子供」だけがかわいく、それ以上に育っていく子供を許せなかったのだと思います。
幼児のときに本を読み聞かせてもらったことと、安い本なら沢山買ってもらえたことだけが、わたしが母に感謝していることです。
わたしの半生を毒親のしたこととともに振り返る
この作業本当に嫌なのです。振り返りたくもない。
だけどこれは体験談。
今悩んでいる誰かの救いにならないかと思って書きます。
書くのはものすごく覚悟がいりますし、全ては書ききれないと思います。
でもいきます。
うちは、父・母・姉・わたしという家族構成でした。
幼稚園の時、わたしは不登園児だった
幼稚園時代からわたしは漠然とした不安を抱えていました。
ダイニングテーブルの下に隠れて誰とも話さず、そこから出てきませんでした。
そして、幼稚園自体が怖くて怖くて登園することができなくなりました。
その頃母親は大きな病気をし、入院や手術をしていました。
わたしの記憶が出来始めた幼い頃から、ずっと(わたしの)父親について悪口を言い、汚物のように扱う母でした。
「お母さんはお前が小学5年生になる頃には死ぬ」と母は幼いわたしにささやき、わたしは不安で毎晩眠れませんでした。
(わたしが40を過ぎてもまだ生きているようですが)
のちにカウンセリングで、その不安感は家の中で安心できる場所がなかったからですよと指摘されました。
毒親の暴力に怯えた小学校時代
小学校低学年の頃より、母親から暴力を受けました。
暴力は毎日というわけではなく、母の機嫌が悪くなった時やわたしが口答えをした時に発動しました。
お尻をぺチンと叩くとか、げんこつぐりぐり、といった系ではありません。
それは「狂気」でした。
乱暴に髪の毛を掴んで、水を張った浴槽に沈められました。
ごめんなさい、ゆるしてください、というわたしを無視して母は何度も何度も私の顔を水に突っ込みました。
何か悪いことをすれば、リビングの雨戸を閉め切って音や泣き声が外に漏れないようにし、ものさしでミミズ腫れができるまで太ももを叩かれました。
それなのにわたしは母のことを嫌ってはおらず、わたしは家の中の雰囲気が張り詰めたときにおどけて笑わせる役でした。
中学校時代、毒親は服やブラジャーを買ってくれない
中学2年生になってもブラジャーを買ってもらえないのは、クラスでわたしだけでした。
当時好きだった人に優しく指摘され、恥ずかしくて恥ずかしくて親に「ブラジャーを買って下さい」、と頼みこみ渋られながらやっと買ってもらいました。
洋服は、「制服があるからいいでしょ」とよれよれのワンピース1着しかなく、あとはパジャマでした。
因みに母は、自分にはすごくお金をかけていました。
沢山ありすぎる服の中には1着20万円するブランドものや、いつ着るんだろうという高価な着物までありました。
習い事はゴルフ、油絵、スポーツクラブ。
もちろんわたしも姉も習い事は小学生から何もしていません。
高校時代は放任。ミカコ、みかわしの術を身につける。
高校受験の頃から、わたしは母親の扱い方をだんだん学んできました。
「逆らっても無駄」
「機嫌が悪そうなときは近寄らない」
それでも、学校から帰るなり突然、ヒステリーを起こした母に洗濯物を投げつけられたりしました。
母はずっと専業主婦で、一度も外で働いたりはしておらず、そのことが(夫がちゃんと稼いでいることが)ステータスだと感じていたようですが、自分が家事をすることは我慢ならなかったみたいです。
だから、わたしが掃除をしたり洗濯を手伝ったりすれば、(やることなすこと文句は言いますが)まだ機嫌がよかったのです。
全くわたしに興味がないのかと思っていたら、わたしが付き合う友人・異性にはものすごく興味を持ち、全てを把握しようとしました。
そして勝手に値踏みをし、全員の悪口を言いました。
人の悪口を言うのはわたしが小さな頃からでした。
近所の人、母の友人、親戚、父、姉、全員の悪口をわたしに言い、わたしはそれをすべて聞かなければいけませんでした。
姉のこと
姉は小さい頃から、母が自分に向ける憎しみをわたしに向けることでストレスを発散していたようです。
成長してからも母はわたしと姉にそれぞれの悪口を言ったので、当然ながら姉妹間は不仲でした。
姉はわたしとは全てが正反対のタイプで、中高生の頃は部屋の中を足の踏み場もない汚部屋にし、大人になってもこの異常な家庭に疑問を抱かず、自分が持った子どもに自分の母と同じことをしていても全く気づかずにいます。
父のこと
小学生の頃の母の暴力は、父の知らぬところで全て行われました。
父は仕事人間で、母が「父が嫌いだ父は汚い」という発言をわたしや姉に繰り返したため、わたし達は父に全くなつきませんでした。
そのくせ、父には「優しいできた母親」と見せたいようで、父がいる日曜の夕食だけまともな食事が出ました。
(父も途中からは「赤いきつね」か「緑のたぬき」しか食べさせてもらえなかったようですが…。あと「ペヤング」)
大人になり、父は悪い人ではないと気づいたわたしは論理的な考え方をする父を理解することができ、やっと仲良くなりましたが、それが母にはすごく気に食わないようでした。
わたしは毒親育ちだという自覚がまったくなかった
こんな環境でも、わたしは自分の母も家庭もまともだと思っていました。
母は大変外面がよく、家の中でと外での振る舞いが全く違いましたので、外ではまともな人として通っているようでした。
母の愚痴を毎日聞き、機嫌を損ねないようにうまく付き合えば悪い人ではないと思っていましたし、むしろわたしが友達のように振る舞うことで母と仲良くもできました。
こうしてなんでも母に相談し・許可を得なければならないと思っている、自分に自信のない、自己肯定感の低いわたしという人間が出来上がっていました。
結婚後、わたしが妊娠してから毒親の過干渉が始まる
そんな中で、人間的に尊敬でき、感情に流されずにいつも芯をしっかり持っているオットに出会えたことはわたしの人生にとって最大の幸運でした。
わたしが妊娠すると、母の過干渉が始まりました。
母は生まれてきた長女を見るなり、「妊娠中ビタミンCを摂らなかったからこんな色黒の子どもが生まれた!」と産婦人科でわたしをさんざん罵りました。
わたしは出産した夜、そのことが不安で一睡も眠れませんでした。
全くの思い込みであり、医学的根拠のないことを言われても、母の言うことだから信じてしまっていたのです。
さあ、一事が万事です。
長女が風邪を引けば、「お前のせいだ!親の責任だ!」と罵られ、次女を年子で妊娠すると「ちゃんと避妊しなかったのか!」と罵られるような日々が始まりました。
驚愕なのは、母は自分の過去を徹底的に美化しており、わたしが母から小学生のときに暴力を受けていたことを話すと、「しつけのためだから仕方がない」とか「ちゃんとお風呂の水はぬるま湯にした」と訳のわからない言い訳をすることでした。
母は自分がこの世で一番正しく、自分に意見する者をすべて悪とみなしていました。
父の入院と死
わたしの子どもが3歳と2歳になるかという頃、父は悪性腫瘍で入院しました。
何ヶ月もの入院で弱っていた父は、いつも母を病室で待っていたのですが、母は父に優しくするどころかきついことばかり面と向かって言う有様でした。
でもそれはうちの家庭では「当たり前のこと」でした。
わたしはまだ、そのことに気づけていなかったのです。こんなものは普通の家庭ではないということに。
ある日、病室の父がわたしに電話をしてきて、「またお母さん怒って帰っちゃった、どうしよう」と相談してきました。
そして、「お母さんにもう少し優しくしてくれるように、ミカコから言ってくれないか」と頼みました。
わたしは父にこう言いました。
「お母さんにそんなこと言ったって優しくしてくれるわけないの、わかるでしょ?逆ギレされるだけだよ。
それより、お父さんがもっとしたてに出て、お母さんの機嫌をとって優しくしてくれるように仕向ければいいんだよ」
「したてに出ているつもりなんだがなぁ…でもミカコ、そのこと、いつから気づいていたの?
お母さんにそんなこと言っても仕方ないって…」
「高校に入る頃からそうしてきたよ」
「そうか…気づいてたんだな」
わたしはのちにこの会話を激しく後悔しました。
抗癌剤治療で髪が抜け落ちやせ細り、唇はカサカサに乾き、点滴だらけの腕で、歩くことも出来ず、ベッドの上だけが世界になってしまったたった一人の父が、やっとの思いで電話してきた頼みをこの耳で聞いたのに、優しくしてくれない母に対して「したてに出ろ」と言ってしまったのです。
「わかった、わたしからお母さんに言っておくね!些細な事で怒らないで優しくしてって言うから、安心して!」
なぜわたしは、こんな簡単なことが言えなかったのでしょう。
父に言いたくても、もう届かないのです。
それから数十日後、父は亡くなりました。
父が亡くなった当日、「あー清々した!」という顔をしていた母は、葬式の最中は親戚の前で悲劇のヒロインを演じていました。
毒親のストレスで体調を崩す
父が亡くなったことでわたしは自分を責める毎日でした。
自己肯定感が低いので、自分を責めるのは得意です。
(今ならこう、客観的に見ることができるのですが…)
そして、父の最期の時の母を思い出すと母という人間を初めて嫌だと思うようになり、そんな自分にまた自己嫌悪に陥りました。
それに加え、母がもっと干渉してくるようになりました。
母もさすがに寂しくなったのだと理解しようと努めました。
しかし母が家に来る時、毎日のように電話が鳴る時、わたしは偏頭痛や胃痛を起こし、一旦頭痛が始まると薬が効かなくなり何も食べられず、一日に何度も胃液を吐き続けるという日々を送るようになりました。
あまりにも毎日偏頭痛が起き何もできなくなってしまうため、脳神経外科で精密検査をし、偏頭痛が起こらないように予防する自己注射用の薬をもらってくるほどでした。
オットだけが「毒親」に気づいてくれた
父が亡くなる少し前から、オットはうちが「機能不全家族」であり、母が「毒親」であり、わたしが「アダルトチルドレン」なのだと気づいていたそうです。
体調を崩し育児もままならないわたしに、一冊の本を渡しました。
「アダルト・チルドレンと家族―心のなかの子どもを癒す」という本でした。
オットが昔読んだそうで、かなり読み込まれていて、傷んだ本でした。
その著者(斉藤学氏)の会社で、カウンセリングを受けてみないかと薦めてくれました。
カウンセリングを受けてやっと毒親のこと、ACであると自覚
オットが子どもを見てくれるというので、一人で都内までカウンセリングを受けに来ましたが、直前までわたしは「自分はアダルトチルドレンではないし、虐待を受けていたわけではない。場違いではないか?」と思っていました。
カウンセラーの方にもそう言いましたし、きっと話の途中で「あなたは当てはまらないですよ、お帰り下さって大丈夫」とでも言われるかと思っていました。
しかし、そうではありませんでした。
わたしはオットの言ったとおり、機能不全家族で育ったアダルトチルドレンであり、母は毒親だったのです。
小さい頃から「怒り」を外に出さなかったために身体に蓄積してしまい、今「ストレス」「頭痛などの不調」となって現れている…と言われました。
わたしはショックを受けるとともに、妙に納得してしまいました。
やはりそうだったんだ、あれは怒っていいものだったのかと。
毎回子どもを預けてカウンセリングに通うのが大変なので、電話でカウンセラーの方と話すことを選び、何度も話を聞いてもらいました。
自分の状況に気づいてからは、また別の戦いが待っていました。
※わたしが受けたカウンセリング
※私が読んだ毒親関係の本ではこちらが一番読みやすく、全てが自分の母のことかと思えるくらいの内容でした。
まとめ
この記事を書くのにはすごく抵抗がありましたが、いつかは書こう、書かねばなるまいと思っていたことです。
なぜなら、わたしはこんな家庭で育ちましたが「今は幸せだ」と断言できるからです。
同じように毒親を持ち、悩んでいる方にお伝えしたいことがあるからです。
わたしよりももっと酷かった環境の方もたくさんいると思います。
衣食住あったのならいいじゃないかと言われるかもしれません。
しかし、この辛さは他人とは比べられないものです。
ここには全てを書ききれていません。
そして、「わたしがどんなに辛かったか」を理解してもらうために書き始めたのではありません。
今回の話は序章に過ぎず、わたしの過去をちょろっと紹介しただけです。
どうか次からの記事も合わせて読んでください。
母が毒親とカウンセリングで認定され、アドバイスを実行した結果【体験談ブログ】
わたしが親と絶縁した経緯。罪悪感よりも大事なもの【体験談ブログ】
今は絶縁して7年が経ち、わたしの性格はかなり変わり、体調不良も全くなくなりました。
自分で言うのもなんですが、「よくぞまともな人間に育った、自分」と思っています…。
多分、わたしを知る人は「まとも」と思ってくれるハズ…ハズですが…。
こうして生きている人間もいる、と主張したいのです。
毒親に育てられようが、アナタ機能不全家族でしたよと言われようが、こうして普通に、幸せを感じて生きています。
主婦になり、仕事をし、子育てに悩みながらも、とても充実した毎日を送れるようになりました。
次回、カウンセリングを受けた時点からの続きを書きます。
2018年12月13日追記:続きを書きました
母が毒親とカウンセリングで認定され、アドバイスを実行した結果【体の不調が改善】 私が毒親と絶縁した理由。親が起こした裁判に振り回され、ずたずたに毒親が出てくるエピソード
「顔面神経麻痺、原因不明」の診断に絶望した日の話。体験談ブログ毒親と絶縁する具体的な方法を徹底的に調べました
親と絶縁する具体的な方法!これを読めば実践できる、徹底マニュアル読んで下さってありがとうございました。