これは約20年前、わたしが20代前半だった頃の話です。
わたしの人生の中で、最も不思議だったことをお話します。
もちろん実話です。
そして、わたしなりに「死」について考えたこと、どうやって身内の死をやり過ごしたのかも、最後の方でご紹介します。
同居していた祖母のこと
当時のわたしは独身で、実家に住んでいました。
実家には両親のほかに、1年前から祖母も同居していました。
「祖母」と便宜上いいますが、本当は母の叔母です。
でも本当の祖母は小さな頃に亡くなっていておらず、わたしにはこの人が大好きな「おばあちゃん」でした。
祖母の夫である「おじいちゃん」はすでに他界し、一人息子も十数年も前に亡くなってしまい、嫁であった義理の娘と孫がいましたが不仲であったため、一年前から姪であるわたしの母を頼り家で一緒に住み始めたのでした。
祖母は既に80歳近くになっていましたが、清潔感があり、肌の色は透き通るように白く、髪も輝くような白髪でした。
うちにきた当初、祖母にはその嫁と孫関係で色々な問題があったようで、暗い顔をしていました。
あまり前のようにおしゃべりではなくなり、一人で部屋にこもることが多くなっていました。
時間が経つとともに笑うことも増えてきましたが、一緒に食事をしていてもなんとなく悲しそうな顔が心配でした。
そんな祖母の最期の夜、今でも忘れられない話をしたいと思います。
まさか祖母の死期が近いなど誰も夢にも思わなかった
その頃のわたしは都内に勤めていて、朝早かったり夜遅かったりと不規則で、とても忙しくしていました。
祖母と顔を合わせることがあっても、「おはよう」とか「ただいま」とか挨拶をする程度で、祖母からも「大変ねえ」「いってらっしゃい」という言葉があるくらいでした。
祖母は軽度の糖尿だった以外はいたって元気で、食べ物に少し気を使う程度でした。
平日はデイサービスに行き、同年代の友達もできたようでした。
だから、誰ももうすぐ祖母が亡くなるだなんて、予測することはできませんでした。
その日が最期の、忘れられない夜だった
その日、わたしは仕事が遅くなり、外でご飯を食べてから23時すぎに帰宅しました。
驚いたことに、いつもは22時には就寝してしまう祖母がダイニングでにこにことした表情で座っていたのです。
本当に早寝早起きの人で、普段その規則正しい生活には狂いがなかったので驚きました。
「わ、おばあちゃんどうしたの?まだ寝てないの?」と言うと、
「ミカコちゃんとお話したくて待ってたのよ」とシワシワの顔をもっとしわくちゃにして笑いました。
何か不思議な、けれど重要だと思わせる空気がそこにあって、わたしもいつものように部屋に戻ってお風呂に直行せず、手を洗うと祖母の隣に座りました。
祖母は嬉しそうに話し始めました。
最近はこんなに饒舌ではなかったのに、その日はとても機嫌がよくおしゃべりでした。
元気な祖母の様子を見てわたしもうれしくなりました。
「今日ね、ミカコちゃんのお父さんと、弁護士さんの所に行って遺言書を書いてきたのよ。これですっきりしたわ。もう思い残すことはないわ」
胸のつかえがとれたような顔をしてそう言ったことを覚えています。
何言ってるのおばあちゃん、とわたしは苦笑いしました。
それ以外に話した内容は他愛もないことでした。
わたしの小さい頃のこと、祖母の若い頃のこと。
祖母はよく笑いました。声を上げて、でも上品に。
「ミカコちゃん頑張ってるねえ。とってもきれいになったわねえ」
そう言って、白く薄い皮膚の手で、もう大人になったわたしの髪を、小さい頃のようになでてくれました。
大事なものに触れるように、とてもそっと。
わたしは照れくさくなって「えへへ、やだなもう、子どもじゃないよ!」と言いながら実はすごく嬉しかったのです。
その時の、手の感触。
昨日のことのように思い出せます。
本当に、優しい手でした。
今でも忘れられない瞬間
30分ほど話をしたところで、別室から顔をのぞかせたわたしの母が、「もうこんな時間だよ?寝ないとだめでしょ」と言いました。
「あっ、そうだね」とわたしはすぐに立ち上がりました。
でも祖母がその時わたしの両手をとって、
「でも、ミカコちゃんともっとお話したいわ」としっかりわたしの目を見て訴えました。
「だめだよ、また明日にしなさい」という母の声に流されて、わたしは…
「そうだよおばあちゃん、また明日話そう?」と祖母の温かい手をそっと離しました。
…どうしてこの時、祖母の願いどおりにもっと話さなかったのだろう?
祖母がわたしに「お願い」することなんて一度だってなかったのに。
どうしてわたしは、いとも簡単に祖母の手を離してしまったのだろう?
二度とその温かい手を握ることはできなくなってしまうのに。
…祖母は名残惜しそうにゆっくり自室のふすまを閉めながら、「おやすみなさい」とわたしに言いました。
わたしも「おやすみなさい、また明日ね」と言いました。
これが最期でした。
祖母に「明日」は来ませんでした。
翌朝、なかなか起きてこない祖母の部屋を覗いた母が、祖母が眠るようにベッドの上で息を引き取っているのを発見しました。
仕事先で見た祖母の幻
わたしはその朝、とても早く家を出ました。
朝食も取らずに仕事に行くことが常で、祖母はまだ部屋で寝ているのだと思っていました。
1時間ほど電車に乗って、都内にある職場へと出勤していました。
職場(書店)で仕事をしている時、ふと顔を上げた先の外に、祖母にそっくりな人がいるのを見かけました。
透き通るような白髪の人は珍しいので、思わず「あれっ」と声を上げました。
こちらを見ているように見えたのです、だから祖母なのかと思いましたが、まさかここにいるわけがない。
外は人通りの多い往来で、すぐにその人は見えなくなってしまいました。
その後すぐのことでした。
職場の電話が鳴り、わたしが呼ばれ、出ると父で、
「落ち着いて聞いて。おばあちゃんが亡くなった」と聞かされました。
「えっ、嘘」としか言えませんでした。
その後何回も父に「嘘でしょ?嘘でしょ?」と繰り返していました。
でも父が、嘘や冗談などでそのような電話を職場にしてこないことはわかっていました。
頭ではわかっていても信じることができませんでした。
わたしは上司に伝え、半泣きになりながら、走っても仕方がないのに地下鉄の駅まで走りました。
あれは本当に祖母だったのかもしれない
急ぎ飛び乗った電車の中で、涙で既にぐちゃぐちゃになっている顔を人に見られないように隠しながら、自分がどうやって息をしているのかわからず、胸が苦しくなりました。
そんな頭で考えていました。
職場で一瞬だけ見えたあれは、本当に祖母だったのかもしれない。
わたしに何かを伝えに来たのかもしれない。
いや、昨日の夜、伝えたがっていんだ。
もっと話したいと、言っていたのに…!
もう二度と話すことができないんだ…
もう二度と、温かい、優しい手で頭をなでてくれることもない。
その事実が頭の中をぐるぐると回りだし、電車の中だというのにわたしは気がつけば号泣していました。
亡くなった祖母との対面
自宅近くの駅からも全部走り通して帰宅しました。
既に家の玄関先や廊下には葬儀屋の人たちがいて、ぐちゃぐちゃボロボロのわたしを見ると、痛そうな顔をして道を空けてくれました。
祖母は葬儀屋さんが用意したきれいな布団に寝かされて、顔には真っ白な布が掛けられていました。
実際に見るまでは信じない、と思っていた気持ちが崩れました。
白い布をそっとよけると、本当に祖母は息をしていませんでした。
今にも起き出して「おはよう」と言い出しそうなのに。
わたしは「おばあちゃん、ごめんね」と何十回も言いながら、引き剥がされるまで組合わされた祖母の手を握っていました。
祖母の死因
少し落ち着いてから、母から亡くなった時の様子を聞きました。
祖母はいつも夜中に一度トイレにいく習慣があるのですが、トイレから戻ってベッドにそのまま倒れ込むように亡くなったらしく、直接の死因は「急性心不全」でした。
わたしはそれを聞くまで、ひょっとして自殺の可能性があるのではと思っていました。
昨晩の言動が、自分の死期を知っている人のそれとしか思えなかったからです。
遺言書を書いた当日の夜に亡くなる?
いつもはすぐに寝てしまうのに、わたしを遅くまで待っていてくれて、久しぶりに笑って話し、子供のように頭をなでてくれ、名残惜しそうに「おやすみ」と言った祖母。
そして、職場で電話の直前に見た、祖母かもしれない存在。
こんなことってあるのだろうか?
色々な可能性を考えましたが、どれも納得のいく説明ができるものではありませんでした。
身内の死を乗り越える方法
それから約10年後、わたしは父も亡くしました。
でも、祖母の時ほど不思議な事は起きませんでした。
その代わり、亡くなってから自分の言動を後悔したのは祖母の時と全く一緒でした。
「身内の死を乗り越える方法」と書きましたが、乗り越えなくてはいけないのでしょうか?
時間が薬となって、引き裂かれるような痛みを徐々に緩和してくれます。
わたしにはそれで充分でした。
痛みとともに生きていく。そしてそれは少しずつ、少しずつ、やわらいでいきます。
無理にそれを取り去ろうとしなくても、泣きたいときは泣けばいい。
そうじゃないと身体を壊してしまうって、今ではわかります。
普段の「生活」をすること、辛い時は現実逃避していい
あの時、実際に痛いと感じる胸のうちで、これだけはわかっていました。
亡くなってしまった大事なひとは、生きているわたしが毎日泣き暮らしているさまを見たら心配するだろうと。
そして、生きている大事なひとも、わたしが毎日泣き暮らしていたら心配してくれるのです。
それだけが、毎日普通の生活を送ろうとすることの支えになりました。
どうしても考えてしまう時、涙が止まらなくて辛い時は思い切り泣いて、そうでない時は映画を見たり、本を読むなどして現実逃避しました。
そうやってどうにか時間をやり過ごしていくうちに、泣く回数は減っていきました。
泣くのを止められた日からもずっと、時々一人になると思い出します。
あの時おばあちゃんは何を話したかったのかな、と。
今でも駅のホームを歩いていて、父の後ろ姿によく似た人がいると思わず追いかけそうになってしまいます。
そのたびに涙がどこからか湧いてくるとともに、自分は亡くなった人のことをちゃんと覚えている、という事実に安堵します。
絶対に、忘れないと決めたから。
わたしにとっての「死」が変わった
身近な人が亡くなったことで、わたしにとって「死」は決して恐ろしいものではなくなりました。
懐かしい人に、いつか会えると思えるからです。
こうやって少しずつ長い時間をかけて、人はいつか必ず来る「死」を受け入れる準備をしているのかもしれない、と思うようになりました。
終わりに
祖母の幻を見たという話は実は今まで誰にも話したことがありません。
誰かに話したところで、「見間違い」もしくは「嘘をついている」と思われそうだったからです。
きっと最後のお別れをしにきてくれたのだ、とわたしは勝手に思っています。
自分の死期を悟っていたのかもしれない祖母。
最後に笑顔で少しでも話せてよかったのだ、と今では思います。
そのうち会いに行けるから。
また、懐かしい人とたくさん話せる時がくるのだと、わたしは信じています。